徴兵年齢は14歳から60歳までの武器を持てる男性でした。
モンゴル軍の遠征は長いものになるので、少年兵が多くいました。
最初は後方の輜重部隊からはじめて、だんだん経験を積み、一人前の兵士に成長してゆくのです。(十人隊の隊長だけ古参兵で、あとは少年兵とか)
軍が遠征先で土着化すれば、そこで家庭を持ってその地域に同化していきました。(フレグ・ウルスなんか、まんまそんな感じの成立過程。遠征軍が行った先で落ち着いて国を作っちゃう)
違った環境に慣れるためにも、若く柔軟な精神の若者の方が都合がよかったのでした。


わざわざ書いてる
のを見ると、
こんなふうに
覗かれたのでは
ないかと(笑)
中国人の旅行記に、14歳くらいの子供をたくさん見たと書かれています。現在の悲しい少年兵問題と重ねてはいけません。モンゴル軍は兵隊を一人たりとも死なせないよう最大限の努力をしたし、一般人が外の世界を見るのは戦争くらいだったので、みんな喜び勇んで行ったのでした。
   十人隊
モンゴルの軍は十進法で編成された。
最小単位が『十人隊(アルバン)』
それが10個集まって『百人隊(ジャグン)』
それが10個集まって『千人隊(ミンハン)』
それが10個集まって最大の『万人隊(トゥメン)』
(本当に1万人まで届いたことはまずないが)
これによって、それまで部族単位で動いていた軍の指揮系統が統一化され、一兵卒までハーンの命令が行き渡るようになった。
   親衛隊(ケシクテイ)
ハーンの本営を守る親衛隊。
宮廷官僚、近衛部隊、幹部養成組織を兼ねる、
モンゴルのエリート機関。
千戸長ら功臣の子弟や、配下になった国の王子、兵士の中の聡明で容姿端麗なものが選ばれた。
よその国の王子たちは、人質だった一方、彼らを親モンゴル化し、政治参画させる手段でもあった。
モンゴルには人種や思想の差別がないので、ここで実力を発揮すれば、人種に関係なく昇進できた。
人口が少ないことが悩みのタネだったモンゴルでは、兵隊は一人たりとも死なせないのが目標で、モンゴル兵が百人単位で死ぬと、指揮官は中央に召還されて、資格審査を受けなければなりませんでした。(つまり軍法会議送り)
戦法はいたってシンプルで、基本は前衛が偽って逃げ、追撃してくる敵を伏兵のところまで追ってこさせて反転、包囲して撃滅しました。(袋のネズミにすると死に物狂いで反撃されたりするので、包囲をちょっとあけとくことも忘れずに。少しでも逃げ道があると思うと、人は浮き足立つものなのです。)

この単純な戦法に、ホラズム軍もロシア軍も面白いように引っかかりました。モンゴル軍はおおむね城攻めは苦手でしたが、この作戦を仕掛けると、たいてい守備隊はたまらず撃って出てきてくれます。城から引きずり出せば、まずはこちらのものでした。

モンゴル馬は小さいので、最高でも時速30kmくらいしか出ません。追撃してくる敵軍の馬の方が大きいので走るのも早く、見る見る距離が縮まります。
追いつかれそうになると、振り向きざま矢を放ったり(パルティアンショットと呼ばれる射法。しかも遊牧民はこれで精度出して狙ってくるから怖い)馬用のマキビシを撒いたりして微妙な距離を保ちます。そうしているうちに大きい馬は疲れ、遅いけどタフなモンゴル馬を追いきれなくなります。もうちょっと、あとちょっとってとこで追いつけないと、人間は諦めがつきません。ついつい深追いしてしまいます。

こうやってほぼ3日以上は陣地から引っ張り出しておきます。そして戦闘が行われると、破れた敵兵は安全地帯の城に戻るにも3日以上逃げなければならないのです。敗残の3日は辛く、たいてい食料も水も失くしていて、城までたどり着けずに倒れてゆきます。隊列から落伍した兵を射倒しながらゆっくり追撃してきたモンゴル軍は、敗残兵がへとへとに疲れたころを見計らって、一気になぎ倒していったのでした。

どうしても城を攻める時は、投石器などの攻城兵器もさまざまに使いつつ、以前に落した城の住人を前衛に押し立て、それらを相手にした守備兵が疲れたころを見計らって、モンゴル軍が止めを刺しに出て行きました。人道上やっちゃいけない戦い方なんてものはありません。(つか、13世紀に現在の人道感を持ち込んでもねι だいたいモンゴルに限らずどの文化圏でも戦争捕虜にこういうことさせてたしね)



つまり、戦争をやるにもモンゴル兵の損害を出来るだけ少なくするのが何よりも優先されたのでした。こういうスタンダードなモンゴル戦法が決まれば↑、自軍に一兵の被害も出さずに勝利を収めることも現実に可能です。
この論理が徹底しているので、兵士は将官を信頼しているし、軍律も厳粛に守られ、命令には絶対服従しました。
突撃命令が下れば、十人隊が迷うことなく数千の敵中に突っ込んでいきました。

モンゴルと言うとすぐ略奪とか連想されるかもしれませんが、略奪もまた作戦の一つであり、命令がなければモンゴル兵は指一本触れることなく立ち去ります。
勝手に畑に入って葱一束抜いてきても死罪になるほど、軍律は厳しいものでした。
(城落したら3日間の略奪し放題は昔からの世界中の相場です。特にモンゴルがってことはありません。軍律厳粛で、やるなと言われたらやらないモンゴルの方が珍しいくらいです。)


ゴメン、まだ途中!